ふと思い出した、とある高専生のこと。
どちらかというと、そいつに誘われたdiscordのサーバーのほうを思い出したのかも。
参加サーバー一覧を流し見したら、そこにそれはなかった。
追い出されたのか、それともそいつらに何かがあって解散していたのか、もはやそれを知るすべは残されていないが、ただほんの少し、ほんの少しのさみしさが画面に残っていた。
その人と出会ったのは、確か高1の春のはずだ。
月の姫(の前身)であるツイッタラーをやっていた時のことだ。
本来なら絶対に知り合えないであろう人間たちと変な話ばかりしていた。
高校のアカウントもその延長で作ったため、別の高校の人間と無理やりかかわったり、他学年の人間と馬鹿やったりしていた。
沢山の人間に囲まれたくて、注目されたくて、とにかく人間関係を広げようと昔の私は躍起になっていた。
さんざん今までに書いてきたが、とある人間の「記憶に残らないなら、そいつって生きてる意味ないんじゃないの」という言葉がトラウマになって、「何としてでも誰かの記憶に残らなければ、わたしに生きてる意味を!」と足掻いていた。
記憶をたどると、自分のメンヘラ要素は「もっと私を見てよ!!認めてよ!!」からスタートし、「果たして自分の暗い気持ちを知るものはいったい何人いるのだろうか?」だとか「それを受け入れられるものはいったい世界に何人いるのか?」となり、今は「理由もなく湧いてくる病魔と希死念慮との生きるための闘い」へと変わっていった。
なにが変わったからメンヘラ要素が変わったのか?と風呂で「もう二度とあの日にはもどれないんだよ」系の歌詞が含まれる曲を聴きながら考えていた。
この変化については、等身大の人間関係をしていくことになったのと、興味が外から内へと変わったことが大きい。
大学進学で出来上がった人間関係が今までより重厚になったのと、自分を他人が見る時、絶対に一部しか見えないということに納得した上で、自分とはなにかを他人に定義させることをやめたからそうなったのだろうと思う。
(その上でたぶんネットに全力を費やすようなリソースや精神性が消失したんだろうな~)
それにしてもいまだネットで新たなる人間関係を作り出すことはやめていない。
しかしながら、「わたしをみてよ~~~!!!!」と騒いでいた、ほんのりと死にたいだけ、死にたいを利用していた一般人だった時期とは違う。
もはや人に見てもらうためにネットをしているのではない。いや、見てもらうのは見てもらってるけども。
人を見て、自分の役に立てるために、そういう気持ちで使っている。
だから別に自分を認めてもらわなくても構わないし、そんなことは求めていない。
認めてもらえたらそれはそれでうれしいけどね。
思考のベースはその時の状況や精神性で恐ろしいまでに変容する。少なくとも私の中ではそうだった。
別に「今ほかの人に認めてもらいたくて病んでるあなた!つまらんからそんな悩み方をやめなさい!」と言いたいのではない。
その病み方をして学ぶこともたくさんあった。迷惑をかけてしまった人たちには申し訳なさがすごくあるが、役立つことは無数に得られたと思うし、今自分を動かしている思考に至るために必要なことだった。
その上視野狭窄が入りまくって現実の居場所も少なかったわたしにはそうなるしかなかったとも思う。
過去のわたしと同じ病み方をして苦しんでいる人たちも、おそらく生きていればいろんなものをみて、その上でたどり着いた場所でこのクソみたいな悩みから解放され、自分らしい答えに着陸したり、別の悩みに出会ったりするのではないかと思う。
まずその次のなにかに出会うために、今現在いる地点で足掻くことがそれなりに大事なのではないだろうか。
「いずれ変わっていくものだが、今出会っている病みに正しく苦しんでいこう」ということにとりあえず軟着陸しておきたい。