ホルマリン漬けの思考回路

散文的思考ログ(旧:真空管かけごはん焼き機)

あけおめから半年経ってますね!!!!

えー、2026という数字にもいよいよ慣れてきたところでようやく本ブログの1記事目となります

(そんな人はいないと思いますが)愛読者の皆様にはお待たせして大変申し訳なく思う次第です

 

いや実は、下書きには今年入ってから出そうと思ったやつが3つくらいあるんです

それが出せてない!それだけなのです許してくださいまし

 

 

はてさて、 かれこれこのブログ開設してからも8年とか経つのかな…

それ以来、以前含め一貫してわたしを見ている人、というのは極々少数ではありますが、「朱雀」を名乗り出してからを見ている方はそれ相応にいらっしゃる気がします

自分自身でも過去の記事を見ると、「おっさんになっちまったな…」となるわけですけれど、皆様にとってはいかがでしょ。

継続して関わってるとあんま感じないかー!

まあどちらでもよいのです。

ガキのままのわたしも、もはやおっさんとして判定されても仕方ないわたしもどちらも正しく「朱雀」の積み重ねの結果なので。

これはわたしとしては、自己を見失ったことを悩みとしていた過去の自分を1人救えたということに他ならず、とっても望ましいことです。わたしの望んだ結果です。

 

ということで、今年は明文化はしてないなという自らがなぜまだ生き残っているか?についてと、下書きに潜んでるやつを放っていけたらいいなと思います。

これだけ書いてもまだ内緒にしてることは多い、からね!

 

ではまた。すざは生き続けるぞ。

記憶の整理、歩く道。(この記事は2020年くらいに下書きに突っ込んでいたのを再公開した記事なので今の私の言葉では無いです)

もう一年と1ヶ月経とうとしている。
ずっと続くと思っていたわたしの幸福だったもの。
相手にとっては幸福ではなかったもの。
あの瞬間からわたしに穿たれた穴は、まだ塞がらないままだ。

 

それは、そうに決まっている。埋まるわけなどなかった。

だってわたしは、16年前の甘酸っぱさも、中三の秋の地獄も、高1春の悪夢も、高2の切なさも、高3の羨望とぬくもりも、大学2回の哀れみも、すべて、すべて覚えているから。

1年前の傷が癒えることはまだずっと、ずっと先なんだろう。もしかしたら全部、人生を終えるまで刻まれたままなのかもしれない。

 

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あれは3回の春だった。

わたしは付き合っていた人間がいたのにもかかわらず、次の人に手を出した。

ただメンヘラ仲間が欲しかっただけ、って言っても言い訳にしか聞こえないのはわかっている。誰にも理解されなかった。

でも実際そうだった。わたしはただ本心を理解してくれる人間を増やしたかった。それだけだった。

結局二人で遊んでいたらなし崩し的にそんな関係になってしまった。そういう雰囲気を出されるとその気になってしまう悪癖のせいだ。せいだ、じゃない、意志が弱かった。

その時の彼女とは別れないまま。実際そのままでもいいかもしれないと心のどこかで思っていた。どうせうまく言いくるめられると。

しかしそうはならなかった。

全てバレていた。当然だ、どっちも同じサークルの人間だったから。

二人を傷つけるだけ傷つけ尽くした。

謝罪して謝罪して、新しいほうとそのまま続けることになった。

関係は修復できたとなぜか思っていた。それで1年半過ごした。尽くしたつもりだった。わたしは幸福だった、心の底から。このまま続いてほしいと願うほど。

相手はその間不安で仕方なかったらしい。また浮気されるんじゃないかと。でも嫌いにはなれなかったと。

わたしは相手も幸福であると勘違いしていた。わたしと同じ気持ちだと妄信した。

違った。どうしようもなく違う人間だった。

別れ話での最後の言葉が忘れられない。

お前はなにも努力できない、恋愛も絵も音ゲーもDJも勉強もなにもかも努力できていない。

意識のずれをこれでもかって示したものだった。

わたしはわたしなりにやっているつもりだった。

相手からはすべて不足していた。

 

そう、最初からずっと、致命的にズレていた。治るわけなんてなかった。

 

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sionchan.hatenablog.jp

去年の今頃とはまた違った感情になれている、少しは前向きに歩いている。

今なら終わった理由だって明確にわかってる。

 

今は、現在の話は、きっとスタートラインはそろっている。

いるよね?

そう思ってる、これも妄信だったらいやだけれど。

 

 

絶対言えることは、今のこともこの先ずっと覚えている、ってことか。

わたしはまだ前に進む、すべてのわたしを抱いて。

努力は、するさ。

 

 

私の人生は、常に苦痛と揺れの中にある。
10年以上前から、躁鬱という呪いに翻弄され続け完全にフラットな状態を経験したことは一度もない。
薬や治療を受けても、病は消えず、心身は常に疲弊し、希望という言葉は遠く霞んで見えるだけ。
 
同時に、私は宇宙の冷たい虚無を理解している。
星も原子も、いずれ消えゆく存在にすぎず、生きた痕跡は泡沫の如く無に帰する。
世間に蔓延る生きる意味など、人間お得意の意味のない感情や情動に後付けで御託を並べる児戯。
それでも世界は、「生きることは神聖だ」と私に強制しようとする。
無理やり押し付けられる価値観に、怒りと絶望が胸を締めつける。
確かに「生きるだけ」ならば。それだけならば保証される時空に流れ着いているのだろう。
しかしそれだけの私は生ゴミでしかない。
 
私の身体も精神も欠陥品のように感じる。感じるじゃない、それは事実。
感情は安定せず、自分はのたうち回るように苦しみ続けている。
過去の自分も救われることなく、今も私の脚を掴み、隙あらば手折ろうとし続ける。
理性で虚無を、その先を理解しても、現実の苦痛は消えない。
それどころか、理性さえもこの身に留める意味を失ったかのように虚しく響く。
苦しむたびに喉元にナイフを突き付けられている感覚になる。
何度これに傷つけばいい。
 
「この身を消すこと」が唯一の現実的な救いだ。
しかし理性は破滅を防ぐ最後のスイッチとして存在し、私を行動に移させない。
そして理性が飛んでも神が運命を捻じ曲げる。
逃れられない業火、揺れ続ける天秤、果てしない虚無、それが私の現実だ。
 
私の絶望は、病、虚無、社会的強制、醜い欠陥品である自分、約束された苦痛、未来の無意味が絡み合った複雑な塊だ。
光も希望もないように見える世界で、それでも理性は微かに息をし、神は私を最低限の秩序の中に留める。
 
これは肉塊を蝕む呪詛から逃れようとする悲鳴だ。
私の痛みは決して消えないが、この狂気が太極へ歩みの杖となることを望む。

アンチ庵野をアンチになった理由から再考した

① 「アンチ」と言いながら、何が嫌だったのかを言葉にできていなかった

シンエヴァを見てからというもの、庵野秀明スタジオカラーに対して否定的な立場を取ってきた。
エヴァは好きなんだけど、庵野が嫌い」「新劇場版はQからダメ」──そう言っていたけれど、なぜそう感じるのかを言葉にできずにいた。

でも、自分でも創作をやっているからこそ、ちゃんと考えておきたかった。
なぜ好きになれなかったのか。何に違和感を抱いたのか。
言語化できないまま「嫌い」と断じるのは、不誠実に思えてきたからだ。

 


② 『序』『破』が素直に楽しめた理由

新劇場版の『序』と『破』はかなり楽しめた。
旧TV版のリメイクとしてもわかりやすく、テンポも良く、演出も洗練されていた。

とくに『破』ではキャラが“世界の中で自然に動いている”感覚があった。
シンジの成長も描かれていて、「キャラの選択が物語を動かしている」ことに納得できた。

 


③ 『Q』で断ち切られた“導線”への信頼

そして『Q』。すべてが一変した。

物語は14年後に飛び、世界もキャラの関係も変わっている。説明はなく、観客はシンジと同じように戸惑う。
その演出意図は理解できるが、自分にとっては「唐突すぎた」。

前作『破』で積み上げたストーリーの導線が、すっぱり断たれたように感じた。
キャラの感情の流れも薄く、カヲルの描写も短くて、重さのわりに雑に扱われたように見えた。

 


④ 『シン・エヴァ』の“終わり方”と、感情的な納得の欠落

『シン・エヴァ』では、村の生活やレイとの交流、ゲンドウとの対話などはしっかり描かれていた。
このあたりはとても好きだった。

ただ、最後のメタ的な「現実への帰還」には強いもやもやを感じた。
積み上げてきたキャラクターの物語が、作者の意志で急に断ち切られたように見えたからだ。

 


⑤ 「対話」がテーマだったからこそ、拒絶が痛かった

振り返ると、エヴァは最初から「対話」の物語だった。

他人とどう関わるか、どう心を開くか──
『Q』のシンジも破の延長で「対話しようとしていた」が、それが全て拒絶される。
唯一の希望だったカヲルも死に、シンではまた自閉状態からの再出発が始まる。

そして村での生活やゲンドウとの対話を通して再び他者と関わろうとする。
この流れは、振り返ってみるとすごく丁寧で、むしろ好ましい構成だったと気づいた。

 


⑥ 『Q』は“シンジの目線”で描かれていた──そこに気づけなかった

さらに、ようやくわかったことがある。
『Q』は徹底的に「シンジの視点」で描かれていた。

14年の空白、変わった世界、説明されないまま進む展開。
それはシンジにとっての“混乱”であり、観客にそれを体験させる演出だったのだ。

当時は「説明不足」としか受け取れなかったが、今思えばそれは自分が作品との対話を拒否していたとも言える。

 


⑦ 「嫌い」と切っていたのは、“導線の断絶”に対する反射的拒否だった

自分は物語の構造──ストーリーの導線を強く重視する。
キャラの行動と結果が納得できる流れになっているかどうか。
そこに違和感があると、強く反発してしまう傾向がある。

『Q』『シン』に対しても、感情的に「嫌い」と切っていたのは、まさにそこへの拒否だった。
でも今では、嫌いだったのは“作り方”であって、作品そのものではなかったと気づけた。

 


⑧ 結論──エヴァは大切な作品だからこそ、納得したかった

こうして振り返ってみて、自分はやっぱりエヴァが嫌いじゃなかった。

世界観もキャラもテーマも好きだった。
だからこそ、その終わらせ方に対して、納得したかった。

『シン・エヴァ』では、村での生活やレイとの交流、ゲンドウとの対話といった“他者との再接続”が丁寧に描かれていた。
ようやくキャラたちが「対話を再構築」した先で、物語は突如メタ的に切り替わる。
「はい、ここで現実に帰ってください」と言わんばかりに、物語が断ち切られてしまうように感じた。

そこに、強い“満たされなさ”が残った。
キャラたちが積み上げた関係性、その物語の流れが、最後に「作品の外」から回収されてしまったようだった。

とはいえ、“現実に帰れ”というメッセージそのものには納得できている自分もいる。
娯楽や創作は、あくまで生活の土台の上に成り立つものであり、現実との接点があってこそ意味を持つ。
庵野が作品を通じて「もういい加減エヴァから卒業して、自分の人生を生きてくれ」と投げかけたことも理解はできる。

だからこそ、違和感の正体は"メッセージそのもの"ではなかった。
むしろ、「そこまでの物語の流れ」をもっと大切にしてほしかった。
ようやくキャラたちが再び世界と関わろうとした矢先だったからこそ、物語の終わらせ方にはもっと納得したかったのだと思う。

さらに今となって思うのは──
自分自身、普段「人との対話が大事だ」と言っているくせに、作品との対話は真っ先に拒んでいたという皮肉。

『Q』が唐突に見えたのも、自分がストーリーの導線を重視する人間だからだった。
でも実際には、構成もテーマも緻密に作られていて、理解しようとすれば受け取れることばかりだった。

わからなかったのではなく、わかろうとしなかった。
今では、そこにようやく向き合えた気がしている。

 

 

結論

とりあえずジークアクスは見なきゃならんなあとなった。

 

話題の渦中にあるもの由来の思考(病を患っていることについて)

一年近く放置していたらしい

まともにまとめるにある思考を行っているほどの暇がないタイミングが続くので許して欲しい。

 

なんだかTLがザワザワしているのを見て文面にまとめるべきだなと感じた思考が発生したのでここにまとめておく。

 

さて、このブログを読んでいる諸君にはある程度周知の事実ではあるが、わたしは「双極性障害」の当事者であり、「障害者手帳2級」を交付されている。

 

これを見てどう感じるだろうか。

私は「できれば関わりたくないな〜」と思われているのではないかと予想する。

精神障害を患っていることは、「関係性を断つのに相当するだけの正当な理由」足り得るというのは皆肝に銘じるべきではなかろうか。

 

実際小学生の時に明言せずともその特徴が色濃く出ているご学友に対して積極的に関わろうという気持ちになった人間はどれだけの数いるだろうか。

先生に勝手にお世話係にされた、以外で接したことのある人間はどれだけいるのか。

ひどい場合は友達連中と無視したり、虐めたり、そこまでせずとも近くに来たら「○○菌ついた!」と言ったりといった扱いをしていなかっただろうか?

 

私はこの病を患っていることを広く告知した際に関係を切られること、また職につけないこと、解職されることがあっても全くもって文句を言える筋合いはないと考える。

「面倒だ」という印象は拭いきれないものがあるし、広末涼子の件で「他害を行う危険性がある」と判断されるのはあまりにも自然なことであるからだ。

また、障害者手帳2級に相当する病状を見れば、社会生活を行う上で不安が圧倒的にあるのは明らかだ(内容は調べてみて欲しい。書いてるとしんどくなる。)

実際問題同じ病の仲間について大変申し訳ないが「関わってらんないな」という感想を抱くことすらある。

 

では何故私は大切な仲間や恋人、神に囲まれ、そしてそれなりの会社の正社員、イベント主催、イベントクルーという立場でいられるのか。

それは「関わってていいや」「別に病があってもこいつは問題ないだろ」と判断されるに足るだけの証明をここまでにしてきたからである。

 

この証明ができていないにも関わらず自分の特性を開示する、というのは第一印象をマイナスからスタートする行為である。

全く関係のない人物に対して配慮を要する病を患っていますという前情報があった場合にそこから積極的に関わろうと思えるだろうか?

元から開示しているのであれば、そこで足切りされることに文句は言えない。

 

その上で、実際関わる上で配慮を要する場面に遭遇する人は現状の関係性の中で一体何割いるだろうか?

わたしが生活する上では恋人や親などの身内、頻繁に遊ぶ友達程度しか自らの病が影響する場面は発生しない。

本来そこまでに行かない人間に対して病を伝える必要は一切ない。それによって迷惑をかけないようにすれば良いだけである。

迷惑をかける可能性が出てきた時に伝え、その段にここからまだ関係を続けるかの判断を仰ぐのがベターだ。

 

表舞台にて活動を行う上で、病を患っていることにアイデンティティ帰属意識を持つべきではない。

そしてそれを盾に権利の主張や配慮の強要を広く行うことは反感を持たれることは当たり前であると思うべきである。

またそれを行うことによって

同じように障害を持ちながらもまともに社会生活を送る努力をしている人間に対して不利益を強いることになる

という事実をしっかり認識して欲しい。

また、表舞台に出るに相応しくない状態まで達した際は大人しく一度身を引くことも大事だ。

 

残念ながら人間の多くはある属性を持つものには、そのうちの1人から得た印象を当てはめてしまうようにできている。

○○教、××人と聞いてどう思うだろうか?(なんかあんまりよく思ってないやつを任意で当てはめてください)

同じように「精神障害者」というカテゴリは世間から厳しい目で見られている。

すべての「仲間たち」が過ごしやすくするためには各々の努力が大事なのではないだろうか。

なので、わたしは社会を行うことを努力するし、他者に対して配慮を強要することもしない。

常に配慮されなければ生きていけない状態になった際は大人しくこの人生を終えることを決意もしている。

 

わたしほど極端なことは考えなくて良いと思うが、自分、ひいては同じ境遇の者に不利益を与えないように生きてみませんか?という提言をして締めとする。

 

 

 

 

 

 

※自分がここまで来るのに血反吐ぶちまけるほど頑張ってるのに、それを台無しにするようなことをされると血管切れるよって思ったから書き殴った。ゆるして。

私がここまで歩んだことの意義

久々に文字を書きたくなった。

おおよそひと月くらい燻らせていた感情だ。

とはいえ、実際に表にお出しした長文というのは今のところ一つだけだ。

メモ帳にだらだらと書き、何言いたいのかわかんないなあとなり全消しするを5度ほどやった。

 

ところで、このブログは大学の割と中盤ごろあたりからの思考が開陳されているものになっている。

それより前の思考はとあるXアカウントを追うとある程度見られるのだが、基本的にそこまで意味のないもので。

おおよそまともな思考をするようになったところからでいうと、概ねこのブログでわたしを全て把握できる。

わたしがやりたかったこと、いつか言った「遺しておきたい」が思いの外うまくいっているといえるだろうか?

 

ここより前はまあ無邪気なものである。カラオケが楽しかったとか、音ゲーのスコアに一喜一憂するとか、人を見下すとか、とんでも政治主張をするとか、そんなだ。非公開にしている黒歴史っぽいブログも、だいたいそんな程度。これはこれで当時の好き嫌いとかが置いていて、個人的には悪くない。見てほしくないものなので流石にそちらは公開する気はない(なんならこのブログも2年も前のものになると見られたくないなあという内容と化すが、それもあってこそ意図に沿うものなので見てもらえる形にしておく)

 

ありがたいことに人生哲学的なものを語らえる場所ができたりもして、考えを言語化することもまま出て来た。

お陰様で非公開の場でとどめている思考などが溜まって来ている。

discordやXの鍵垢、そういう語らいには便利なのだがわたしの「自分が死んだ後に誰かがわたしを生き返らせることができるようにしておきたい」という目標には反する。そこで言葉にしたことは、そこで言葉にしたということで満足してしまう性格をしているからである。

いや、こまめにブログにちゃんと書き写しとけよと言われたら本当にその通りですと言ったところ。

わたしを好んで追ってくれている方々には迷惑をかけっぱなしで本当に申し訳ない。しかし、この性格の修正はあまり期待しないでほしい。考えが溜まった頃に考えを書けるタイミングでここに綴るので、許していただきたいところだ(反省なしか?

最近は病気さんとの関わりがうまくいっているので、書いてないうちに死んでしまってちょっと古い思考までしかこの世に残せなかった…といったリスクはそうないはず。はずだ。

 

また、語らうたびに自分が過去の哲学者の遺品を握っていないことにもどかしさを覚えるようにもなって来た。時間を見つけてその辺りも学んでいきたいなどという意欲も出てきた。

そして、魔術。去年、つまり2023年にそちらの界隈からは抜けたのだが、ここに来て学ぶ必要があると認識した。こちらはとりあえず入門に最適と紹介してもらった本を購入したのでじわじわとやっていきたい。

ちなみにしおんたちとはうまくやっている。やっていけているからこそ、特に新たに学ぶ必要はないと思っていたのだが…やっぱりそちらの界隈と縁を完全に切るのは間違っていたようだ。

ありがとう、ホストのタルパさんの保持者!オフしてくれてよかったぜ。

 

今のところ趣味の活動(あえてぼかしている)もどんどん大きくなって来て、とても楽しい。

もちろん、完全なプライベートも紆余曲折ありつつも今後を考えるとワクワクしている。

生きている間でこんなに地に足ついた状態で前向きだった時期があっただろうか…なんというか、前向きではあった時期はあったが、とにかく無理やり前に進むために奮い立たせるという方向性か、完全に自分のいる位置が見えなくなってなんでもできるような錯覚に陥っているか、ばかりだったと思う。

 

とりあえず2024/4月上旬を経て感じているのはこんなところ。

過去の自分の灰、そしてわたしの翼から抜け落ちていた羽。

どれも輝いている。

刹那主義の自分、狂った自分(これは常にか?)、神と出会った自分…どれもわたしだ、ようやくそれを認められるようになった。

 

わたしにとっての生きる意味。

人のためになるだとか、金を手に入れるためだとか、その瞬間の快楽を最大限得るだとか、そんなものはないだとか、時期によって様々なことを言った来た。

人生哲学について語るところで他に快楽主義の方を見つけた。

厳密にいうと楽観的なニヒリズム、らしい

解説としてはこちらが詳しい。

https://gigazine.net/news/20170728-optimistic-nihilism/

 

実際過去これと同じ考え方をしていた。

が、今は魂の成長を標榜している。

本当のところは全く違うが、日本人的には輪廻の概念がわかりやすいのではないだろうか?

正確にはわたしがしおんという存在、神に帰依しようとしていることを知らないと納得しにくい部分だとは思うが、要するにこの世で自分の人生を後で上位存在に評価してもらうフェーズがあるから、そこまでにスコアを上げておくぞ!というものだ。

 

少し細かく------------------

この宇宙はいずれ原子すら残さず消え去るだから、という話は過去にしたと思う。

この前提は今も変わらないが、この話をしたときには「だから瞬間の快楽を大事に!」というまさに上で載せた楽観的ニヒリズムに近い発想をしていたはずだ。

物質は消える。しかし人間の本質は物質にはない、というのが今の考えだ。

なぜなら、わたしの隣には物質にとらわれない神がいる。

わたしは前から自分の本体は身体にはないのではないか?と感じていた。

魂は物質に宿りこそするが、これが本体ではない。この身体で得た経験は魂に溜まるし、この身体が消えても魂は消えない。そしてその魂はわたしの隣にいる神の下に還る。

そう信じているし、信じているからこそわたしはこの神のルールに入った。狂っているんじゃない。あなた方はあなたの思うルールの中にいる。これがこの世の在り方だ。

細かく終了-----------------

 

過去の考えも、これに気づくために必要だったこと。だからわたしは過去のわたしを認めるよ。絶対に意味のある、多大な価値のあるわたしたちだった!

今の自分も、また後の自分に、なによりしおんに認めてもらえるようにしていきたい。

しおんに認めてもらうため、前に進み、時には死に苦しみ、真理に気付くために生きていきたい。

もちろん、あとでわたしを蘇らせる物好きがいたら、そのためのヒントを残しつつ。

 

神の隣に辿り着く日はずっと先だろう。

誰も旅の途中だ。

 

次にあなたの前に通りすがるわたしは、果たしてどんなものだろうか?

わたしも楽しみだ。

 

 

 

 

 

呪い

あけましておめでとうございます。なんかよくわからないけど無事(?)生きています

今年も死に損なっていきましょう。

 

今の私を生かすのも、殺そうとするのも”呪い”だなあと思うなど。

 

殺そうとする呪いは、言うまでもなく”病気”

生かそうとする呪いは…やらなきゃいけないこと、大事な人、そしてわたしの神。

 

殺そうとするものは呪いかもしれないけど、生かそうとしてるものはいいものなんじゃないのか

一般的にはそうだろう。なんなら恵まれている自覚はある。死にたがりは本当に何もないような奴らが多数だ。

金も、職も、社会的地位も、パートナーも、趣味も、スキルも、本当になくてエネルギーと金だけを使っている、”自分の理性”で正しく死を望める人たち。

そっちのほうが幸せだろうなと思う。

 

わたしは、生きるだけの理由があるのに病気に”死にたい”と思わされている。

そう思わされることで生きるだけの理由にこたえられない

それで、それでわたしが理性で思うことは、すべて何とかしてやると

それがすべてなければ、逆に理性で死ねる側にわたしもなれるだろう。

なにもかも、過去の私が積み上げたもの、生まれ持ったソレ。希望には恵まれている。

恵まれているがゆえに苦しむ。

だから呪いだ。感謝こそするが、呪いなのだ。

わたしが狂って死を望むフリをさせられるのもこの肉体に生まれたからで、そこから立ち直るだけの力を持てるのもこの肉体に生まれた故だ。いわばこの身体こそが呪われた装備だ。

 

それでもその呪いから、”消極的な能動的死”以外で解放される道を見つける日が来たら、きっとわたしの神は真の幸福をくれると

そう信じさせられることが一番酷い呪いだが。