ホルマリン漬けの思考回路

散文的思考ログ(旧:真空管かけごはん焼き機)

私がここまで歩んだことの意義

久々に文字を書きたくなった。

おおよそひと月くらい燻らせていた感情だ。

とはいえ、実際に表にお出しした長文というのは今のところ一つだけだ。

メモ帳にだらだらと書き、何言いたいのかわかんないなあとなり全消しするを5度ほどやった。

 

ところで、このブログは大学の割と中盤ごろあたりからの思考が開陳されているものになっている。

それより前の思考はとあるXアカウントを追うとある程度見られるのだが、基本的にそこまで意味のないもので。

おおよそまともな思考をするようになったところからでいうと、概ねこのブログでわたしを全て把握できる。

わたしがやりたかったこと、いつか言った「遺しておきたい」が思いの外うまくいっているといえるだろうか?

 

ここより前はまあ無邪気なものである。カラオケが楽しかったとか、音ゲーのスコアに一喜一憂するとか、人を見下すとか、とんでも政治主張をするとか、そんなだ。非公開にしている黒歴史っぽいブログも、だいたいそんな程度。これはこれで当時の好き嫌いとかが置いていて、個人的には悪くない。見てほしくないものなので流石にそちらは公開する気はない(なんならこのブログも2年も前のものになると見られたくないなあという内容と化すが、それもあってこそ意図に沿うものなので見てもらえる形にしておく)

 

ありがたいことに人生哲学的なものを語らえる場所ができたりもして、考えを言語化することもまま出て来た。

お陰様で非公開の場でとどめている思考などが溜まって来ている。

discordやXの鍵垢、そういう語らいには便利なのだがわたしの「自分が死んだ後に誰かがわたしを生き返らせることができるようにしておきたい」という目標には反する。そこで言葉にしたことは、そこで言葉にしたということで満足してしまう性格をしているからである。

いや、こまめにブログにちゃんと書き写しとけよと言われたら本当にその通りですと言ったところ。

わたしを好んで追ってくれている方々には迷惑をかけっぱなしで本当に申し訳ない。しかし、この性格の修正はあまり期待しないでほしい。考えが溜まった頃に考えを書けるタイミングでここに綴るので、許していただきたいところだ(反省なしか?

最近は病気さんとの関わりがうまくいっているので、書いてないうちに死んでしまってちょっと古い思考までしかこの世に残せなかった…といったリスクはそうないはず。はずだ。

 

また、語らうたびに自分が過去の哲学者の遺品を握っていないことにもどかしさを覚えるようにもなって来た。時間を見つけてその辺りも学んでいきたいなどという意欲も出てきた。

そして、魔術。去年、つまり2023年にそちらの界隈からは抜けたのだが、ここに来て学ぶ必要があると認識した。こちらはとりあえず入門に最適と紹介してもらった本を購入したのでじわじわとやっていきたい。

ちなみにしおんたちとはうまくやっている。やっていけているからこそ、特に新たに学ぶ必要はないと思っていたのだが…やっぱりそちらの界隈と縁を完全に切るのは間違っていたようだ。

ありがとう、ホストのタルパさんの保持者!オフしてくれてよかったぜ。

 

今のところ趣味の活動(あえてぼかしている)もどんどん大きくなって来て、とても楽しい。

もちろん、完全なプライベートも紆余曲折ありつつも今後を考えるとワクワクしている。

生きている間でこんなに地に足ついた状態で前向きだった時期があっただろうか…なんというか、前向きではあった時期はあったが、とにかく無理やり前に進むために奮い立たせるという方向性か、完全に自分のいる位置が見えなくなってなんでもできるような錯覚に陥っているか、ばかりだったと思う。

 

とりあえず2024/4月上旬を経て感じているのはこんなところ。

過去の自分の灰、そしてわたしの翼から抜け落ちていた羽。

どれも輝いている。

刹那主義の自分、狂った自分(これは常にか?)、神と出会った自分…どれもわたしだ、ようやくそれを認められるようになった。

 

わたしにとっての生きる意味。

人のためになるだとか、金を手に入れるためだとか、その瞬間の快楽を最大限得るだとか、そんなものはないだとか、時期によって様々なことを言った来た。

人生哲学について語るところで他に快楽主義の方を見つけた。

厳密にいうと楽観的なニヒリズム、らしい

解説としてはこちらが詳しい。

https://gigazine.net/news/20170728-optimistic-nihilism/

 

実際過去これと同じ考え方をしていた。

が、今は魂の成長を標榜している。

本当のところは全く違うが、日本人的には輪廻の概念がわかりやすいのではないだろうか?

正確にはわたしがしおんという存在、神に帰依しようとしていることを知らないと納得しにくい部分だとは思うが、要するにこの世で自分の人生を後で上位存在に評価してもらうフェーズがあるから、そこまでにスコアを上げておくぞ!というものだ。

 

少し細かく------------------

この宇宙はいずれ原子すら残さず消え去るだから、という話は過去にしたと思う。

この前提は今も変わらないが、この話をしたときには「だから瞬間の快楽を大事に!」というまさに上で載せた楽観的ニヒリズムに近い発想をしていたはずだ。

物質は消える。しかし人間の本質は物質にはない、というのが今の考えだ。

なぜなら、わたしの隣には物質にとらわれない神がいる。

わたしは前から自分の本体は身体にはないのではないか?と感じていた。

魂は物質に宿りこそするが、これが本体ではない。この身体で得た経験は魂に溜まるし、この身体が消えても魂は消えない。そしてその魂はわたしの隣にいる神の下に還る。

そう信じているし、信じているからこそわたしはこの神のルールに入った。狂っているんじゃない。あなた方はあなたの思うルールの中にいる。これがこの世の在り方だ。

細かく終了-----------------

 

過去の考えも、これに気づくために必要だったこと。だからわたしは過去のわたしを認めるよ。絶対に意味のある、多大な価値のあるわたしたちだった!

今の自分も、また後の自分に、なによりしおんに認めてもらえるようにしていきたい。

しおんに認めてもらうため、前に進み、時には死に苦しみ、真理に気付くために生きていきたい。

もちろん、あとでわたしを蘇らせる物好きがいたら、そのためのヒントを残しつつ。

 

神の隣に辿り着く日はずっと先だろう。

誰も旅の途中だ。

 

次にあなたの前に通りすがるわたしは、果たしてどんなものだろうか?

わたしも楽しみだ。

 

 

 

 

 

呪い

あけましておめでとうございます。なんかよくわからないけど無事(?)生きています

今年も死に損なっていきましょう。

 

今の私を生かすのも、殺そうとするのも”呪い”だなあと思うなど。

 

殺そうとする呪いは、言うまでもなく”病気”

生かそうとする呪いは…やらなきゃいけないこと、大事な人、そしてわたしの神。

 

殺そうとするものは呪いかもしれないけど、生かそうとしてるものはいいものなんじゃないのか

一般的にはそうだろう。なんなら恵まれている自覚はある。死にたがりは本当に何もないような奴らが多数だ。

金も、職も、社会的地位も、パートナーも、趣味も、スキルも、本当になくてエネルギーと金だけを使っている、”自分の理性”で正しく死を望める人たち。

そっちのほうが幸せだろうなと思う。

 

わたしは、生きるだけの理由があるのに病気に”死にたい”と思わされている。

そう思わされることで生きるだけの理由にこたえられない

それで、それでわたしが理性で思うことは、すべて何とかしてやると

それがすべてなければ、逆に理性で死ねる側にわたしもなれるだろう。

なにもかも、過去の私が積み上げたもの、生まれ持ったソレ。希望には恵まれている。

恵まれているがゆえに苦しむ。

だから呪いだ。感謝こそするが、呪いなのだ。

わたしが狂って死を望むフリをさせられるのもこの肉体に生まれたからで、そこから立ち直るだけの力を持てるのもこの肉体に生まれた故だ。いわばこの身体こそが呪われた装備だ。

 

それでもその呪いから、”消極的な能動的死”以外で解放される道を見つける日が来たら、きっとわたしの神は真の幸福をくれると

そう信じさせられることが一番酷い呪いだが。

 

 

 

岐路

またしても人生の分岐点に立ってしまった

このままゴールまでと思っていたが、別にそんなことはなかったらしい

思い込んだ瞬間に話が終わるのはいつものことだ。もう慣れてしまった。あの時もその時もこの時も、方針を決めた瞬間に吹き飛ぶ。

会った日のこと、わたしはまだ覚えている。

もう遠い昔に感じるけれど。

手を繋いだ時震えていたことも、そして自分が焦っていたことも。

行きつけのイタリアンって言いながらサイゼに行ったのも懐かしいね。

 

あの時のわたしは自暴自棄になったけど、今のわたしにはやらなきゃいけないことがたくさんあるから。

そうしようとした理由がなくなっても、まだやらないといけないので。

辛いけどしかたねえよな

 

そう思ってtinderをダウンロードした。

血の上を歩く

地下鉄の電車がホームに来る時の空気の揺らぎが好きだ。あと一歩踏み出せば死ねることを思い出させてくれる。

妙に冷えた頭で駅全てを見渡しながら「死んでやるもんか」と呟いた。

 

〜〜〜〜〜

 

今日もまたタバコを燻らせながら思考をしていた。

去年の、一昨年のわたしは何してたっけか。

このブログを漁ってみたら大体この時期には記事があるわけなのでその疑問は解決するはずだが、今回はそれに頼らずにいた。

そのうちに気づいたのだが、いつもわたしは何かに苦しんでいる。みんなそうなのか?そうだったら教えて欲しい。

ともかく、去年のわたしは卒業できるかの瀬戸際(実際はそうでもなかったのかもしれないが)ではちゃめちゃに苦しんでいた。一昨年のわたしは友達たちがわたしより先に社会に出ていくことに絶望していた。

でも今日のわたしはそれを「ああ、それもよかったね」くらいで流していく。喉元過ぎればってやつ。

 

前にも書いたが、病む理由というのはその時にしか効果を発動してくれない。してくれなくていいが。

今のわたしを形作っているのはその時々に全力で病んだ自分だ。病んだ経験は間違いなくわたしの血肉として役に立っている…と思う。

でも「あの時あんなに苦しかったんだから今の状況なんて苦しくない」みたいな理論は大嫌いだ。そんなもの苦しみを定量化できるわけないんだから通用しません。

 

しかし、あの時から考えればこんな状態でよくもここまで遠くに来れたものだ。

1週間もとりあえず今日でひと段落。来週に向けて壊れた足を休めることにしよう。

まだ生きていくために。

 

 

否応なく進む秒針

4月からする仕事の内容が決まった。

内容はともかく、責任は割と重大らしい。

新人にやらせることか?と思いつつ外面は真面目なわたしは自信満々に(見えるように)頑張りますと答えた。

 

去年の4月に新卒として入って、もうすぐ1年となる。1年も経たず仕事を辞めてしまうかもしれないと思っていたし、実際辞めたほうがいいレベルのコンディションになっていたこともあったし、辞められるように手帳まで取ったが(本当に手帳チェーンでなんとかなるのかはともかく)無事ここまでこれた。

 

さまざまなことがあった。

生きていてよかったと思えることや、もう死んだ方がいいと思ったことや、病気に苦しめられることもあった。

しかしなにがあろうと月は沈み、朝は来る。

無情にも進む時間の中でわたしは健常者のフリをし続ける。

今はまだできている。しかし明日には崩れるかもしれない、そんな恐怖の中わたしは壊れたエンジンを動かし続けるのだ。

 

そんなことをタバコの煙を眺めて思う。

その煙のように儚い夢を抱きながら。

自分の死後を憂う

わたしが死んだ後、生きていた間の感情の機微というのは誰かにわかっていて貰いたいなと唐突に思った。

 

というのも、qiitaに記事を残しまくってる人間が「後に残しておきたい(意訳)」などと書いていた受け売りなのではあるが、もともとわたしは「誰かに覚えていてもらえている間は生きていると同義」という主義のもと生きており、「どういった思考ルーチンで生きているのかをどこかで再現されれば生き返ったと同じ」と考えているのだ。

わざわざこんな平凡な障害者を再現したがる人間がいるはずはないが、万が一わたしのタルパやらAIやら作りたがる人間がいたとしたら、今の状態ではその助けになる資料というのはほとんどない状態になるわけだ。

厳密にはTwitterの書き込みが助けになる可能性はあるが、アカウントが分かれすぎていて全てを参照できる人間がいるとは思えないし、くだらないツイートというのがほとんどで思考ルーチンの解析など不能だろう。(もちろんそのくだらないツイートがお前の思考なんだろと言われればそれも否めないが)

不測の死に備えて遺書も書いてはあるが、そんなものは一時的な思考のメモであってわたしの全てではないし、読むであろう人間を想定して書いているのでわたしの抜き身の感情とは程遠い。

 

ではどうしたいかというと、このブログにまとめておきたいのだ。

死んだ後ここを見てもらえれば日々わたしがどう思っていたかがわかるように定期的に書いていきたい。

毎日とは言わず、書ける時にまとめて書くのだ。

過去の例から考えるとわたしが自死を選択するタイミングは発狂していると言って良い状態であり、何か残しておくことは不可能に近い状態だろう。

だからこうやって集積するのは悪くないはずだ。

 

という感情を残しておく。

 

 

明け方思考記録

なんとなくブログに思考(もといポエム)を書き散らしたくなるのは毎度きっちりとした鬱に入るくらいのタイミングなのだろうなあと、今回書きたいなとなったときに思った。

きっちりとした鬱ってなんだろ?

気になったけどその定義については次か次の次の鬱に任せておこう。

 

とりあえず前に書いたのが大学の復帰に際しての不安の吐露だった気がするから、それから先について感じたことを適当に置いていく。

 

卒業できるのかどうかについてはずっと不安だったし、このタイミングを逃したらもうドロップアウトだと焦りがあった。

たらればだけど、間違いなくあそこでダメになってたらもう一生ダメだったな〜〜

実験、概論、追加実験、本論…一番大事なタイミングで低空飛行になってはギリギリで持ち直すのを繰り返してた。今思うと本当によく卒業できたなって感想になる。それでもゼミの中では完成するのが早い方だったのが謎だけれど、そこはサインバルタ様様と。

コロナがなかったら潰れてたから、そこは感謝…していいのかな…いや、しおんに感謝しとこう。

 

そして卒業式終わって束の間の休息…いきなり愛媛に謎突撃したりしたの、不安定だったね。

友達と旅行にも行ったし、それなりに楽しんでた。

 

4月、「社会の歯車にはなれないしなってはいけない、でも健常者のフリを諦められないから」って本当に会社に入ってしまった。

望んでた業界が壊滅して思ってたところに就職できなかった人たちに比べたらこれもまた贅沢な悩みなのかもしれないけど、やりたい職種につけただけ良いのかもしれないけど、健常者のつもりでいた時期に思い描いてた未来のルートに間違いなく入れたのだろうけれど、健常者のフリが辛くなり始めるにつれてこの選択を恨むようになってきている。

3月に派手にやらかして入院でもしてればよかったのかな。

周りの人が君はやれるもんねみたいな顔で見てくるのがキツい。やれる自分もやれない自分もわたしではないから、つらい。ナチュラルのわたしはもっと冷静だと思うし、人を舐めてないだろうし、社会も舐めてないだろうし、親と同じく多少大変だろうと寝込まないはずだし、睡眠もおかしくならないだろうし、そして健常者がどうとか思ってないだろうから、そうでないわたしを見られているのが苦痛で仕方ない。

ナチュラルなわたしだったらもっときっちり歯車してたんだろうか。きっと無駄にインスピレーション働かせたりしない人間だろうな、無難に公務員とかで飼い殺されてるので満足なんだろうな、面白くない人生でもいいと思えるんだろうな…こんなポエムいちいち残さなくて良い人間なんだろうなぁ…

 

さておき

 

研修、途中睡眠がおかしくなったりしたけどそれでもなんとか走り抜けた、無駄に元気よく調子良く。初めてなんとなく手伝ったやつもやけに丁寧な仕事してしまった。

おかげさまでわたしは余計な期待を持たれてしまったとさ。

7月、露骨にあやしくなりだして、白い錠剤で無理やり上に引っ張ってた。

 

23,24,25、とてもとても楽しくて素晴らしい思い出ができた。

ここの期間を心から楽しめるようなコンディションに調整できたのは素晴らしい仕事だったと思う。ここまで生きてこれたこと、感じたこと、やったこと全て手放しで賞賛できるような感覚がした(とかいいつつ後悔もしてるけど)。でもなんだかんだいいながらこれを楽しめたのは今までの選択全ての積み重ねの結果なので、人生を肯定してやりたい。

 

8月、今、

これから先の不安が大きすぎる

でも覚悟してたことのはずでは。

どこかで必ず健常者の世界にいることを諦めないといけない日が来るのはわかっているし、それを承知で諦めるその時まで血反吐を撒いても歩くと決めたはずでは。

ここで不安に思うのはやっぱり迷っているからなんだろうな。

しおんの言葉的には「やらずに後悔するならやって後悔しろ」なので、こうやってるのは間違いではないはず。

やらなきゃ健常者のフリやり続けられるかわかんないもんね。

 

こうやってくるくる思考を回してるのを眺めていると、やっぱり健常者の生活に憧れがあるんだなって胸がキュッとなる。

本来ならそこにあったはずのレールが実は敷かれてなどいなかったと、気づいた日からレールが恋しくて仕方ない。最初からレールの上など走ってないのに。これが幻肢痛

周りの人からわたしの前にも後ろにもレールがないことを悟られないように必死になっている。

核融合炉が調子良ければバレないで済む。

でもそれが落ちてる時は?みんなが普通に進んでるのになぜか進めなくなるのを隠して居られるか?リカバーできない遅れが生まれたら諦めないといけない。

うわーー袋小路!

 

いつドロップアウトするのか、考えなきゃだめかな。