ホルマリン漬けの思考回路

散文的思考ログ(旧:真空管かけごはん焼き機)

病めることは、病めるときにしか病めない。

定期的に湯船で考え事をする時期が来る。

オブラートに包まずにいえば鬱が来るタイミングなのだが。

今回は急に苦しくなって、何もできなくなっていく、気力がなくなる、実際に身体が動かなくなってく事実に病んでいる。病んでぬるま湯の上を溺れているのか浮かんでいるのかわからない状態を3時間続ける。

 

鬱の時期は鬱の時期で変な頭の周り方をする。

気持ちを文字に残そうとするのは主にこの時期で、なぜかというと病むことをくるくる繰り返しているので単純に文字にするとそこそこ書けるのと、それをアウトプットしないといずれオーバーヒートして全部の思考が「自死」へと向かうからだ。

「もはや死にたすぎて死ぬ方法すらわからない」とまでなると本当に何をしてても全部死への渇望に変わってしまって趣味もできなくなってしまう。この前なった。

 

-それはそうと-

 

去年未遂したとき、一体自分が何に対してそんなに苦しかったのかもう今のわたしにはわからない。

わからないといいつつ、心当たりはある。あるけれど今同じことで苦しむのかというとそんなことはないと思う。

だからわからない、なにをそこまで悩むことだったのか。

昔苦しかったことを振り返ったらすべてそう、そうなる。

友達がいないとか、受験がどうとか、いじめがどうとか、部活の人間関係がどうとか、心底どうでもよく見える。

じゃあその時の悩んでた時間が無駄かというと、それはそれでまた違う。そのとき悩んで悩んで、選んだ答えがあるから、その時思ったことがあるから、そこで死なずにいたから今のわたしがある。

別に「死なないでいることが美徳、生きてないといけない」とは言わない。なんならわたしは死んでおけばよかったとか、今死んだ方がいいとかいまだに思っている。

でも、生きてく上でその時の問題で病むことは大事という話。きっとね。

 

今病んでることも、今後のわたしの構成要素として役に立つのかな。

 

役に立つ前に死んでなきゃ、いいけど。